子どもを守ることと、親を責めることは違う。
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先日、SNSである投稿を目にしました。
子どもが遊具で危険な遊び方をしていて
それに対して、
「あぶないよ」
「それは、してはいけないよ」
と、声をかけたことについての内容でした。
そして、
『子どもの安全はみんなで守ろう!
親だけの役割ではなく、
周囲の大人たちにもできることがある!』
そんな思いが綴られていました。
そして、そこには
こんなコメントも寄せられていました。
「問題行動する子の親は、
だいたい子どもを見ていないですよね」
「公園で携帯ばかり見たり、
ママ友とのおしゃべりに夢中になって
子どもを放置している親がいます。」
「見ないなら外に出ないでほしい」
(※投稿内容、コメントは趣旨を変えない範囲で一部表現を整えています)
うん。
子どもを見守ること。
危険な行動には、必要な声をかけること。
本当に大切なことだと思います。
子どもたちの安全を守ることは
私たち大人の大切な責任です。
危険な行動があれば止める。
もちろん、
親自身が子どもを見守る責任を持つことも大切。
大きなケガをしてからでは遅いこともあります。
だからこそ、
こうしたことを社会に向けて伝えることにも、
大切な意味があると思っています。
厳しい言葉の背景にも、思いを寄せたい
そして、もう一つ。
ここで大切にしたいことがあります。
それは、
厳しいコメントをされた方々にも、
それぞれの経験や思いがあるということ。
実際に、寄せられたコメントの中には、
公園で、自分の子どもが
走ってきた子とぶつかって転んでしまった、
という経験を語られている方もいました。
我が子が危険な目に遭ったとき。
怖かったでしょうし、
腹が立つこともあるでしょう。
「どうして親はちゃんと見ていないの?」
「もっと気をつけてほしい」
そう思うのも、無理のないことだと思います。
その言葉の背景には、
我が子を守りたいという
切実な思いがあるのかもしれません。
だからこそ、
そうした厳しい言葉の背景にある、
経験や思いにも目を向けたい。
その人が感じた怖さや怒りも、
大切な気持ちだと思うから。
ただ、
その気持ちを理解することと、
そこから「こういう親はみんなそうだ」
と決めつけてしまうことは、分けて考えたい。
そう思うんです。
そして、そんな投稿やコメントを
読んでいるうちに、私の中には、
もう一つの思いが生まれてきました。
なんだか、
複雑な気持ちになったんですよね。
なので、少し立ち止まって
考えてみたいなと思ったんです。
*
それは、
「ちゃんと子どもを見守ろう」
という正しさの向こう側に、
見守れていない親の事情や背景が、
見えなくなってしまうことへの違和感。
だったのだと思います。
その正しさが、
「ちゃんと見ていない親が悪い」
「そんな親は公園に子どもを連れて来なければいい」
という方向に進んでしまったとき、
何か大切なものが失われていく気がするんです。
見えている行動だけでは、わからないことがある
例えば、公園で子どもから
目を離している親がいたとします。
「ちゃんと見ていてほしい」
そう思うのは、自然なことです。
実際に危険な状況であれば、
その場で安全を確保する必要もあります。
ただ、その親がどうして
子どもを十分に見守れていなかったのか。
そこには、
外から見ただけではわからない
事情があるかもしれません。
・子育ての疲れが積み重なっているのかもしれない。
・心や体の不調を抱えているのかもしれない。
・子どもへの対応に、日々悩み、
どうしたらいいかわからなくなっているのかもしれない。
・周囲に頼れる人がいなくて、
孤独な子育てをしているのかもしれない。
また、子どもの行動から危険を予測すること自体が、
難しい場合もあります。
危険に気づき、
先を見通して対応することが
得意な人もいれば、
さまざまな理由で、
それが難しい人もいる。
「親なんだから、わかるはず」
とは、一概に言えないこともあるんですよね。
もちろん、
そうした事情があるからといって、
子どもの安全を守らなくていい
ということではありません。
また、
実際に無責任だと感じられる行動を
とっている場合もあるでしょう。
ただ、私たちが見ているのは、
たいてい、その人の生活のほんの一部分です。
その一場面だけで、
その人のすべてを判断することはできません。
だからこそ、
「どうして、この親は子どもをちゃんと見てないの!」
という問いだけで終わらず
「なぜ、見守ることが
難しくなっているのだろう?」
「この親御さんが、子どもを安心して
見守れるようになるには、
何が必要なんだろう?」
という問いも持ちたいんですよね。
伝えなければならないことは、
きちんと伝える必要があると思っています。
でも、
行動に対して責任を求めることと、
その人自身を責めたり、
否定したりすることは違う。
私は、そう思うんです。
正しいことを伝える。その先にあるもの
「ちゃんと子どもを見てください」
この言葉自体は、決して間違っていません。
けれど、その言葉を伝えた先に、
私たちは何を願っているのでしょう。
その親に、自分の間違いを
わからせることでしょうか。
それとも
その親が、これから子どもを安全に
見守れるようになることでしょうか。
もし、後者を願うのであれば、
ただ「ちゃんとしてください」
と伝えるだけでは、
十分ではないこともあると思うんです。
人は、責められることで必ずしも
適切に行動できるようになるわけでは
ありません。
むしろ、責められることで
ますます自信を失ったり、
人に頼ることが難しくなったり
することもあります。
子育てに行き詰まっている人が、
さらに孤立してしまうことだってある。
だからこそ、私は思うんです。
子どもの安全を守るために、
親に必要なことを伝える。
そして同時に、
その親が抱えている困難や、
その背景にも思いを寄せる。
どうすれば、その人が
子どもを安全に見守れるようになるのか。
そこまで一緒に考えられることが、
大切なのではないでしょうか。
「みんなで子どもを見守る社会」って?
今回のことをきっかけに、
改めて考えたことがあります。
それは、
「みんなで子どもを見守る社会」とは、
どんな社会なのだろう?
ということ。
子どもたちが危険なことをしていたら、
周囲の大人が声をかけられる。
自分の子だけでなく、
ほかの子どもたちの安全にも
目を向けられる。
そんな社会は、
とても大切だと思います。
そして、私はもう一つ。
子どもを見守るそのまなざしを、
子育てしている親にも向けられる社会であってほしい。
そう願っています。
「子どもを守ること。」
そして、
「子どもを育てる親を支えること。」
この二つは、
どちらか一方を選ぶものではなく、
本来、つながっているもの
なのではないでしょうか。
子どもの安全を守るために、
必要なことはきちんと伝える。
でも、それが
親を責めたり、追い詰めたりすることに
つながってしまわないように。
困っている親が、
ますます孤立してしまわないように。
そして、
危険な経験をした人の怖さや怒りも、
置き去りにしないように。
誰かの言動を見たとき、
「そこには、どんな背景があるのだろう」
と、少し想像してみること。
もちろん、
すべてを理解できるわけではありません。
それでも、
目に見えていることだけで、
その人のすべてを判断しない。
そんなまなざしを
大切にしていきたいと思うんです。
誰かを責めて終わるのではなく、
「どうしたらいいだろう?」
「何かできることはないだろうか?」
と、一緒に考えられること。
困っているときには、
手を差し伸べ合えること。
助けが必要なときには、
安心して「助けて」と言えること。
そして、
「助けて」と言えない人にも、
必要な支えが届くこと。
子どもを見守るその輪の中に、
子育てをしている親もいる。
そんな社会であってほしいなと思います。
子どもも、親も、
ひとりにしないために。
安心して暮らしていける社会であるために。
私たち大人には、
どんなことができるのでしょう。
そして、今回のことをきっかけに、
私の中には、
もう一つの問いが生まれました。
「親を支えるって、
本当はどういうことなんだろう?」
次回は、この問いについて
もう少し深く考えてみたいと思います^^
